2012年2月7日火曜日

温故知新

無気力、無関心、無責任であることを三無主義。これに無感動を加えて、四無主義などと評して若者を批判した時代があった。

「近頃の若い者ときたら」という目下の者を批判する精神と、「昔の人は偉かった」という先人崇拝の念は、いつの時代でも語られていることである。

近頃の若い者は、口の利き方を心得ていないとは、よく耳にする言葉である。目上の者に対して敬語を使わないことや、言葉の乱れを問いただす前に、日本の国の教育方針に大きな問題点があるということを、誰もが認識しているであろう。

周知のように学歴社会の日本では、受験のための教育が盛んである。また、小学校や中学校においては、国際社会に対応できるようにと、外国人の英語教師を積極的に招聘して英語教育に熱を入れている。教育熱心であることは結構なことだ。だからと言って、国語の授業時間を削るというのは如何なものか。

「人間を求め、人間をつくり、人間になっていくことが教育であったはずである。今、わが国の教育から真の国語教育がなくなっていき、「人間」が失われていっていることは、何と恐ろしいことだろう」。

40年以上前に、日本の国語教育のあり方について憂えたのは、ドイツ文学者の小塩 節(たかし)さんである。

教育は人間形成である。このことを本当に肝に銘じているのであれば、その基礎を成すところの「読む」(音読)ことと「書く」こと、そして「作文」に全力を注ぐことにある。

正しい言葉で詩や散文を綴りながら、想像力を培う時間を充分に過ごしていないと、正確に自己表現することが苦手になってくる。人間形成をめざす国語教育は、真の国際人になるための第一歩だ。

戦前に、教育の基盤であった「読み、書き、そろばん」は、人間形成に大きな役割を果たしてきた。故(ふる)きを温(たず)ね新しきを知る。私たちは肝心なことを、歴史の彼方に置き去りにしていないだろうか。

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