2011年9月29日木曜日

ピアノⅡ

父: このピアノ中古だけれど、700ドルもしたんだよ。

娘: 699ドル90セント。

父: 700ドル。

娘: 699ドル90セント。

父: 700ドル。

娘: きのう、調律師のおじさんが来られて、ピアノの中をネジで開けたら、10セントが入っていたの。

ピアノ


ヤマハのオートバイにまたがり、エンジンを吹かしていると、近くにいた少年が口走った。

           ♪

「ピアノの音がする♪  ♪ ♪」

ネコタイの日

ネクタイもきりりと締まる今朝の秋(北岡成章)。秋涼の足音と共に、ネクタイの季節が始まろうとしている。

2005年の夏、小泉内閣の呼びかけで、ネクタイや上着を着用しないクール・ビズ運動が始まった。酷暑のノー・ネクタイは、仕事の効率を上げてくれる。けれども、スーツに適ったネクタイを選ぶ時のように、ノー・ネクタイ姿になった折の、シャツのデザインや色調を十分に考慮していないと、人の目には不規律に映ってしまう。

その点、イタリア人はネクタイを締めたカジュアルと、ノー・ネクタイの正装を着こなすのにぬかりがない。

水玉模様のネクタイだけを愛用したのは、海部俊樹元首相である。その訳合いは、相撲の白星と同じであることから縁起が良いという。

アメリカでは、水玉模様のネクタイは「いつまでも煮え切らない」イメージを彷彿するらしい。水玉は優しそうに見えるが、ややもすればナイーブにも映る。恐らくアメリカ人は、男らしくて力強いイメージを好むのだろう。

愛国心を強調するためか、アメリカでは大統領選挙の候補者は、シャツやネクタイを選ぶ際に、星条旗に入っている色(赤、青、白)を意識するそうだ。

巷では、フォト・タイが脚光を浴びて久しい。日本ではコミュニケーション・タイと呼ばれているフォト・タイとは、家族やペットの写真など、自分の好みの写真をネクタイの柄にすることである。

ところで、日本で最初にネクタイを締めた人物とは? 正解はジョン万次郎。嘉永4年(1851年)に米国より帰国した際に、所持品の中にネクタイが入っていた。との記録が残っている。

101日はネクタイの日。小山梅吉が明治18年(1884年)のこの日に、初めてネクタイを生産したことを記念して制定された。

先ごろ、セレブの御用達エミリオ・プッチのネクタイを締めて、ビバリーヒルズでショッピングを満喫してきた。とは、秋の夜長に見た夢語り。正夢になるだろうか。

2011年9月27日火曜日

ざりがに

ギィョーム・アポリネール/堀口大学


不安よ、おお、私のよろこび
お前と私は一緒にゆく
ざりがにが進むように、
後へ、後へと。


誰でも、不安になどなりたくはない。けれども、全てに満たされていても、人間の心というものは不安に陥ることがある。

アポリネールは煩悶の果てに、不安は私のよろこびであり、人生のパートナーであると語っている。だが、「不安」というパートナーは臆病で用心深い。そして些細なことで色をなす。

自暴自棄に陥ってしまった詩人は、後ろへ、後ろへと進んでいる吾が魂を、黙認するしか手立てがないのである。

間もなく、マリー・ローランサンとの恋が破局を迎えようとしていた。

2011年9月26日月曜日

本日のメール

今日、昔の文学仲間からメールが届いた。1年程前から計画を立てていた、新しい同人雑誌の創刊の話。

1年半前に、ひょんなことから32年ぶりに連絡が取れたのは、月刊文芸誌『関西文学』元編集長の菊池さん。『羅府新報』元編集長の長島さんも加わって、三人で同人誌を発行する運びとなった。

同人誌は不定期、カストリ雑誌覚悟で臨む。気楽なもんだ、二人は還暦を軽くオーバーしている。同人誌の名前はお前が付けろと言われた。僕は無い知恵を絞って3人で発行するから、『三重奏』又は『三銃士』と命名してメールを送り返した。

菊池さんから、諸経費は俺が持つから気にしないでとのメール。そんなことよりもハヨー原稿送れときた。僕は早速、未発表の詩5編を送った。

同じころに詩誌『短調』の主宰者、若林さんからメールが届く、文学講演の依頼だ。まだ後遺症の言語障害が治らずじまい。若林さんに丁重にお断りした。

『癌クラブ』に、先ごろ召天された稲山昭子さんの『鎮魂の詩』をメールした。その他、真理子さんから炊き込みご飯できたよ! 『群生』の編集人、英治君からは原稿の督促。スーザンからは、ジョイの学校のことで打ち合わせのメール。マリリンから明後日の朝、伺うとのメール。

余談になるが僕が日本にいた頃、月刊文芸誌『関西文学』に詩、随筆、文芸評論の作品を発表していた。

2011年9月25日日曜日

眼 巣(がんそう)

壁にへばりついた大きな眼球 
俺を睨みつけている
俺は両手で顔をおおい
机の上にうなだれた
すると暗闇の深淵から
大きな眼球がおれを睨む

眼球の数はどんどん増えていき
天井と壁一面に
眼球の形をした虫の群れがへばりついている

指の先が眼球 鼻の穴も眼球
頭 耳 口 舌 俺のからだは 眼球だらけ

眼球はざわめく 俺の体の上で
眼球はころがる 俺の心の中へ

俺は自分の眼球をえぐりつぶした
奈落の底へ転落しても 眼球が現れてざわめくのだ
俺は眼球だけの世界に 今生きている

眼球の群れが
せっせと運んで来る甘い密をむさぼり
俺はしたたかに
とてつもなく巨大な瞳孔へと変貌を遂げる

2011年9月23日金曜日

ベサメムーチョ

僕が19歳の頃に交際していた女性は、2歳年上の京都芸術大学の学生。音楽部、弦楽専攻。背が高くて、目鼻立ちの整った堀の深い顔は、よくハーフと間違えられた。

梅田新道(大阪)のクラシック喫茶、今は無き『日響』で、彼女がヴィオラを奏でながら、僕が自作の詩を朗読したことがある。

そこへ来ていた客が、彼女に名刺を差し出した。読売テレビ、プロデューサーと書かれてあった。その日から来る日も来る日も、彼女はプロデューサーに追いかけまわされた。スカウトされたのだ。『11PM』に出演しないかと言われたとか。

大学にも押しかけて来るので、僕はプロデューサーと会った。プロデューサー曰く、「彼女はグラマーで、鳳蘭と前田美波里に夏目雅子を振りかけたような顔立ちが気に入った」。

僕は彼女の意向をプロデューサーに伝えて、その場を後にした。やがてプロデューサーは、彼女の前に姿を現さなくなった。

彼女は芸大を卒業すると、本格的に弦楽の先生についてヴィオラの練習を開始した。デートの回数も少なくなった。おのずと疎遠になってくる。

それまでに電話で何回も連絡を取り合っていたが、7ヶ月が経過した爽秋、彼女から電話がかかって来た。ドイツに留学すると言う。

彼女と久し振りに『日響』で会った。思い出話に花が咲いた。ドイツに旅立つ前夜、僕たちは最後の夜を二人で激しく熱愛した。

翌朝、僕は彼女を伊丹空港まで送っていった。その帰りに立ち寄った喫茶店で、甘く切ないメロディー(ベサメムーチョ)が流れていた。彼女と過ごした思い出が、一気にこみ上げてきた。僕の目からは、一菊の涙がこぼれ落ちた。

2011年9月22日木曜日

コレガ人間ナノデス   原 民喜

コレガ人間ナノデス
原子爆弾ニ依ル変化ヲゴラン下サイ
肉体ガ恐ロシク膨張シ
男モ女モスベテ一ツノ型ニカエル
オオ ソノ真黒焦ゲノ滅茶苦茶ノ
爛レタ顔ノムクンダ唇カラ洩レテ来ル声ハ
「助ケテ下サイ」
ト カ細イ 静カナ言葉
コレガ コレガ人間ナノデス


原 民喜(19051951/広島県出身)。『コレガ人間ナノデス』、タイトルと最初の一行、そして最終行が同じである。その他の詩人に於いても、同じ手法で書かれている詩が数多とある。この手法は、よほど吟味して描かなければ、陳腐な趣向に終わってしまう。

この詩の場合は、最終行の「コレガ コレガ」と繰り返したのは成功しているが、タイトルに関しては、ただ『人間』とだけにとどめておきたい。そうすることによって、「コレガ人間ナノデス」が、読者に痛烈に迫ってくる。それだけではない。人間の存在を普遍化させるイメージを作る。

また、ひらがなではなく、漢字とカタカナで綴ったことが、原爆のイメージをよりリアルに表現している。

元来、原 民喜は憂鬱症の詩人である。11歳で父を亡くしてから寡言の人となり、27歳でカルチモン自殺を図り、38歳の折に、十年間連れ添った貞恵夫人と死別している。そして翌年、広島で原爆被災したが奇跡的に助かった。

その後、原爆被災体験の詩を綴るが、民喜は自らの絶叫と、呪詛との挟間で苦悩し続けて、45歳の時に鉄路に身を投じて死去した。

2011年9月21日水曜日

『Fuddruckers』

癖になる味のハンバーガー、病み付きになること間違えなし。

肉の大きさと焼き加減をキャシャーで伝えて、焼きあがったらサラダバーに行って、好みの野菜をトッピング。

ミートパテは4種類、150g、220g、300g、450g。レストランのインテリアは、50’を中心としたオールディーズ。

Fuddruckers















2011年9月20日火曜日

七変化

雄次は気の向くままに、どこまでも歩くのが好きだった。

淡雪が切々と降る京都の果樹園で、奈津子と初めて出逢った。雄次は一目奈津子を見かけた折から、身も心も奪わそうになった。

今日も果樹園に足を向ければ奈津子と会える。明日も、その次の日も、雄次は来る日も来る日も果樹園に通い続けた。

時は流れて奈津子から、大阪に住んでいる雄次のもとへ便りが届いた。
「あす、大阪の病院に入院します」

奈津子と知り合ってから三ヶ月余りが過ぎる。雄次は気をもんだ。

病室を訪ねると奈津子はブリムの無いニットの帽子をかぶり、薄化粧をして雄次を待っていた。雄次は生八つ橋を奈津子の前に差し出すと、奈津子の頬がほんのり鴇色(ときいろ)に染まった。

雄次は奈津子と初めての逢瀬のことを思い出す。鴨川のほとりに降りて、奈津子が作ってきたおにぎり、出し巻卵を食べた。冷たいほうじ茶の香りが誉れ高かった。

病室の窓辺に落暉(らっき)が沈む、この上なくしめやかな時空を奏でている。
奈津子が突如泣き崩れた。
「ごめんなさい 私は 私乳癌なの…… 」短い沈黙があった。
「乳癌がもとで甲状腺、肺、骨にも転移してしまった。隠すつもりはなかったわ」

再び短い黙然(もくぜん)があった。雄次の心は果てしなく凍てついた。
ありふれた慰めの言葉しか思いつかない。雄次はひざまずいて奈津子の両手を握りしめた。

今、奈津子に何もしてやれないなんて、雄次の目の前は無力の金縛り。

雄次は大型の鏡三枚と紫陽花を持って、奈津子のお見舞いに赴いた。鏡をコの字に並べて中心に紫陽花を置くと、どこまでも広がる紫陽花畑が見られる。その中に佇む奈津子は莞爾(かんじ)として微笑んだ。

「私 余命ふたつき だから私のお願い聞いてくださる」奈津子が囁いた。 

奈津子は長崎の大浦天主堂に行きたいという。日帰りなら外出の許可が下りた。タクシーと飛行機を利用して長崎へ急いだ。

長崎の街はどこへ行っても紫陽花の花が咲いている。ブルーの紫陽花の花が七色に輝く。奈津子の顔も桃色に映える。

大浦天主堂の入り口におかれている白亜のマリア像に、雄次と奈津子はしばし無言で対峙した。すると空から七変化の花びらが降り出した。夢のようなひと時を心地よく過ごした後で、やがて二人は天使となって、天の国へと帰って行った。

20年前、雄次は4歳年上の奈津子に、命を懸けて惚れぬいたのである。



※ 七変化……紫陽花の別称 

2011年9月19日月曜日

タイム

時計の箱の中の家の中の箱の中の時計に遭遇すると
過去の未来へ飛ばされた

整いました

  1. 凧あげとかけまして、ストッキングと説く、その心は、どちらも電線に悩むでしょう。
  2. 山本山とかけまして、新幹線沿線監視(しんかんせんえんせんかんし)と説く、その心は、どちらも上から読んでも下から読んでも同じです。
  3. 人が呼び掛けているとかけまして、畑に肥料をやると説く、その心は、どちらも声(肥え)をかける。

2011年9月18日日曜日

ジョイの日課

学校の帰りに月、火、木、金と塾通い。
水曜日はバイブル・クラスとバレーに空手。
金曜日はバイブル・ナイト。
土曜日の午前中は水泳、夕刻はピアノ(毎日練習)。
日曜日は教会。
  近々スペイン語も習う予定。

今年の夏休みは、勉強に専念した。家族で行くのはレストランぐらい。
お蔭でジョイに自信がついた。勉強に余裕がある。クラスメートがジョイに教えを乞う。

「お父さん~ きょうも、テストで100点取った!」ジョイの元気な声を聞くと、病気など何処かへ吹っ飛んでしまいそう!  ジョイ顔晴れ!

2011年9月17日土曜日

珍味

日本の三大珍味と言えば越前ウニ、能登のコノワタ、母野(長崎)のカラスミである。先日、日本の姉に頼んでカラスミを送ってもらった。

母野のカラスミを期待して小包を開けたら、オーストラリア産であった。高知のウルメイワシの丸干も入っていた。僕は両方とも大好物だ。

僕の姉の名前は清子、美人で優しく気立てが良い。これだけ褒めれば、越前ウニと能登のコノワタ送ってくれるだろうか? ついでに、高知のウルメイワシも再度リクエスト。その代りアメリカの、美味し美味しいアイスクリーム送りますよ。

クサヤは意外と、日系マーケットのニジヤで手に入る。12月になれば数の子も販売しているし、ナマコも、蠣(かき)も、サザエも手に入る。

これらを肴に、いっぺー やりて~な~~!


2011年9月16日金曜日

車輪  高見 順

日当たりのいい
しあわせな場所で
車輪が赤く錆びて行く
小さい実がまだ熟さないまま枝から落ちたがっている
球根はますます埋没したがっている

晩年の高見 順は食道癌と闘い、五十八歳の生涯を閉じている。詩集『死の淵より』には、死と対峙する高見の絶叫が幾多にも刻まれているが、その中から、わずか五行の「車輪」を選んだのには事情がある。

この短い一篇の詩を読んでみた所で、全てが把握できるものではないが、散文的な高見の詩を読んでいくうちに、いつしか「車輪」に心が惹かれたのである。即ち、詩集『死の淵から』を味読後、「車輪」は非常に完成度の高い口語詩であり、自由詩であるとの結論に達したからである。

まず、無駄な語句が一切ないこと、そして文体には行間が存在しないにもかかわらず、この詩には「間」が宿っている。かつ、散文調の流れの中に、定型詩の色香が凛々と漂っている。

「車輪」は、死へのあこがれであるとか、死に追いつめられた者の心象であると、故意に決めつけてはならない。なおさら万物すべてが死に直面しているという、死への憧憬を示唆する死の淵にあって、高見は、「車輪」を巧みに超越させた詩へと完成させている。

この「車輪」の手法をして、詩人の着眼点に浸りながらも、死の淵で流浪する高見 順の心痛の唸り声を、読者は鋭敏な感性をもって、海よりも深く味わわなければならない。

2011年9月15日木曜日

下品

娘:冷蔵庫に入れておいたサンドイッチないジャン。
  ジュースもないジャン。
  パンもないジャン。

父:言葉尻にジャンを付けると下品だよ!

娘:じゃー どう言えばいいの?

父:サンドイッチないやんけー なにさらしてけっかんねん! ワーれ~~。

2011年9月14日水曜日

政治家

弁護士になるには、司法試験に合格しなければならない。
医師になるためには、医学部を卒業して国家試験にパスしなければいけない。
職人になるには、長くて辛い修業に耐えなければならない。
芸術家になろうと思ったら、下積み生活と貧困に耐えなければならない。
農夫漁師は子供のころからその環境に馴染み、研ぎ澄まされた勘を養わなければならない。

政治家は、昨日までタレントをしていた者が、選挙に受かれば勉強も知識もなくして、直ぐに政治家なれる。

政治家なんて、誰にでも簡単になれる職業なんゃ~~~

2011年9月13日火曜日

無芸タレント

昔のタレントは、個性があったし芸を極めた。最近のタレントは全く芸がない。くだらない番組が横行する世の中、日本のおバカタレントは、何とかならないのか!

面白くない、くだらない、気分が悪くなる。テレビを観ていて、むしろ腹が立ってくる。

吉本のタレントは、年々酷くなってきている。傲慢、下品、礼儀知らず、一億総白痴化時代に再び突入か!

2011年9月12日月曜日

座右の銘

僕が聖書の御言葉以外に、書斎の壁に貼り付けてある座右の銘は、

生きることへの絶望なくして
生きることへの愛はない

アルベール・カミュ 『裏と表』より

韓国宮廷料理

10年ほど前に、コリアン・タウンを自動車で流していたら、急に焼き肉が食べたくなった。適当に飛び込んだレストランが、韓国宮廷料理Yong Su San』

宮廷料理に、目当ての焼き肉は無かった。初めて食べる宮廷料理は個室で味わう。味の方は薄味で、あっさりとした都雅な味。コース・メニューは5種類。僕たちはSpecial Table D”hoteコース、一人前33.99ドルをオーダーした。

みんな韓国宮廷料理は、まだ食べたことはないので、友達の誕生日は、Yong Su Sanですることに決定。917日が楽しみだ。

Yong Su San 
950 S. Vermont Ave. Los Angeles, CA 90006        213-388-3042





2011年9月11日日曜日

梅干し

僕は酸っぱいのが苦手である。家族でネーブル・オレンジを食べていて、僕だけが酸っぱいと言い出すありさまだ。

体内の血液が酸性であるとか、色々と言われるが、兎に角よほど甘い果物でないと、僕の舌は受け付けてくれない。

かといって、僕は酢の物が好きだ。梅干しは苦手だが、10程年前に沖縄の義理の兄弟から送ってもらったボトム梅、あれは目からうろこが落ちるほど実に美味かった。

梅干しを樽に漬け込む際に、底の方の梅干しが重みで形が崩れる。それらをボトム梅というらしい。地域によっては、くずれ梅干し、つぶれ梅という。今では、僕はすっかりボトム梅のファンなった。

詳しくは…… 不老梅本舗・林 圓三郎商店

  

2011年9月10日土曜日

異邦人


死ねない男は
自殺した女よりも
かわいそう

家の中に引きこもっている少女は
冬眠している青大将よりも
不自由だ

真夜中に
オートバイにまたがって
暴走行為を続ける若者たちは
あらゆるバイ菌よりも
あまったれている

富と名声に
溺れる心は
ホームレスよりも
哀れだ

無神経な聖職者は
まったく手におえない
悪魔でさえも
翻弄されてしまう

詩を書く魂は
人間の本来の姿である
現代社会では流されて
日本人は母国語を破壊しようとしている

さあ 働け 働け
詩を綴る異邦人は
詩を書かない人間よりも
貧乏だ