2011年10月8日土曜日

祈 り
中原中也/『羊の歌』より

中原中也(19071938)の年譜を見ると、母福は叔父中原政熊の養女で、政熊夫妻はカトリックの信徒であったことと、中也が二十三歳(1930)の時に、京都、奈良で遊んだ折に、ビリオン神父を訪ねたことが記載されている。因みに中也とキリスト教の係わりを深く考察している書物は稀有である。
 
中也が親友の安原喜弘に捧げた詩『羊の歌』は三部構成からなっているが、ここでは第一章の『祈り』について詳解したい。

死の時には私が仰向かんことを!
この小さな顎が、小さい上にも小さくならんことを!
それよ、私は私が感じ得なかったことのために、
罰されて、死は来たるものと思ふゆゑ
あゝ、その時私の仰向かんことを!
せめてその時、私も、すべてを感ずる者であらんことを!

『羊の歌』の羊とは、干支が未であった中也自身のことである。よって第一章は、中也の祈りの絶唱が綴られている。中也は私淑したヴェルレーヌのように、カトリックの信者にはならなかったが、「もともと『神が在る』ということは、私の直感に根ざすものだ」と語っている。
 
さて、この『祈り』の詩は、神は信じたがキリスト教徒にはならなかった中也の底意を吐露させたものである。中也はこの世に生きて、「事象物象に神秘を感じる」と断言しているように、西欧ロマン主義に憧憬を懐いて入信したが、その後、文学的懐疑精神から、ことごとく信仰を放棄してしまった戦前の詩人や作家たちとは、あまりにも大きな隔たりがあった。
 
限りなく純真な心であった中也は、『詩』という自己の心が最も弾む方法で、随時、真っ向から神と対峙していたからである。自分の直感では察知できなかった真理を、死の直前までには悟りたいと願望する中で、一方では、頑なに心を鎖している罪の報酬が死であることを認めていた。
 
中也は神に『祈り』の声を上げて切願するが、神と中也の間に鎖されていた扉に、ノブが付いているのは中也の側だけであった。中学時代から「神の愛」が貫かれた長編抒情詩、ダンテの『神曲』を愛読書としていた中也は、神の意思にかなった者だけが許された「至高エムピレオ」の登攀(とうはん)を、「死の時には私が仰向かんことを!」と、必死のおもいで祈ったのである。


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