2012年9月20日木曜日

逸 題   井伏鱒二

今宵は仲秋明月

初恋を偲ぶ夜
われら万障くりあはせ
よしの屋で独り酒をのむ

春さん蛸のぶつ切りをくれえ
それも塩でくれ
酒はあついのがよい
それから枝豆を一皿

ああ 蛸のぶつ切りは臍(へそ)みたいだ
われら先ず腰かけに坐りなほし
静かに酒をつぐ
枝豆から湯気が立つ

今宵は仲秋明月
初恋を偲ぶ夜
われら万障くりあはせ
よしの屋で独り酒をのむ
            (新橋よしの屋にて)

 
井伏鱒二は作家として著名であるが、「逸題」は井伏の二番目の詩集『厄よけ詩集』に収められている。
『日本の詩歌・27/現代詩集』(中公文庫)の中で、村上四郎は井伏の「逸題」を、以下のように解説している。「この詩は、人生の哀歓をなめつくした仲間同士の月見交歓の図である。人生多忙の連中が、一夜若返ろうと集まってきた酒もりの宴である」

村上は「逸題」を鑑賞するにあたって、重大な過ちを犯している。その鍵は一連目と四連目の最後二行にある。

先ず、「われら万障くりあはせ」の一行から、村上は、月見交歓を口実にした仲間同士の酒盛りの図であると想像を膨らます。だが、次の四行目には「よしの屋で、独り酒をのむ」とある。村上は解説の中で、この「独り酒をのむ」ことには一切触れていない。

われら万障繰り合わせ、と来れば、それぞれが、あらゆる支障をどうにか都合をつけて、集まるということであるが、ここでの「われら」は男性が使う丁寧な言い方で、一人称であるということだ。

従って井伏は、今晩の仲秋の明月に、どうにか都合をつけて、行きつけの「よしの屋」で、初恋を偲びながら独りで酒を呑んだのである。

三連目の「われら先ず腰かけに坐りなほし」の「われら」も、言うまでもなく一人称である。井伏の静かに酒をつぐ姿が目に浮かんでくる。

また、二連目と三連目に触れて村上は、「所望するタコも味つけではなく、塩で食うなまのままのやつ、といったところである」と結んでいるが、タコの足の切り口がヘソのように見えるのは、茹でたタコのことであり、決して煮込んで味つけしたタコや生のタコである筈がない。塩と一等相性が合うのも、湯がいたタコである。また、タコのぶつ切りとくれば、茹でたタコのことを指す。

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