2012年12月28日金曜日

滋賀の都


先日『ひるブラ』を観ておりましたら、滋賀の近江八幡やら長浜が映っていました。懐かしさのあまり、つい見入ってしまいました。

テレビの中で映っていました、金目鯛の棒鮨、うまそうやな~。一度、味わってみたいと思いました。テレビで紹介されていた、『料亭・すし慶』は、鯖の棒鮨で有名なところ。まさか金目鯛の棒鮨があるとはね! しらなんだ!

僕は大阪に住んでいましたから、学校の遠足とプライベートで、京都、奈良、神戸、三重、和歌山へは、ぎょうさん、たんと、行きました。こと、滋賀県なると、琵琶湖数回、近江八幡1回、雄琴温泉100回(冗談でっせ)この程度やなぁ。

滋賀は穴場だっせ、あまり観光化されていないから人が少ない。よく似た街並みに、倉敷、柳川がある。いずれも人の波。長浜は地元に人しか歩いていないから、風光明媚なところに赴くと情緒に浸れる。

それから珍味の宝庫やねん。何といっても「鮒ずし」、ありゃたまらんなぁ! めっちゃウメイ! 酒が進む。酒が飲みたい。江美子の目が光っている! あぁ~こわい! 

2012年12月27日木曜日

キリスト者の文人たち


神の有無は、二十年考えても二千年考えても、信じることはできるが説明することはできない。このようなことを語っているのはカーライルである。

パスカルは神の存在に賭けるほうが、神の非存在に賭けるより遥かに合理的な選択であるという論理を『パンセ』のなかで展開している。

即ち、全ての賭けは確率と利益の積で示される。従って「神は存在している」側の確率を最小限に1としても、それから得られる幸福は無限大∞となるので、その積は1×∞=∞となる。一方、「神は存在しない」側の確率をn (かりに大きくとも有限数)としても、これによる幸福は有限(a)なので、その積はn×anaで有限となる。8>であるから、「神は存在している」側に賭ける方が賢明だということになる。(パスカル『パンセ』より)

聖書には「ただ信じなさい」と記されているが、世のインテリゲンチアたちは、自分の能力を過信しているせいか、徹底的に解明して問い質さなければ気が済まないようである。

懐疑精神においては、文学者もすこぶる旺盛である。まず、近代の日本文学における作家にだけ的を絞ってみることにする。しかしながら、手元の資料が些少なので、記憶を頼りに戦前に活躍していたキリスト者であった作家の名前を羅列すると、北村透谷、徳富蘆花、木下尚江、国木田独歩、島崎藤村、正宗白鳥、有島武郎、志賀直哉らの名前が順番に思い浮かんできた。

それでは、彼らの福音信仰とはいかなるものであったのかと、興味津々であるのだが、残念なことに、文学者であるが故に、ことごとく正統的なキリスト信仰に疑問をいだいて、キリスト者としての立場を放棄してしまったのである。

そもそも彼らが、キリスト教を享受した大きな手蔓となっていたのは、西欧浪漫主義に対する憧憬であって、天地創造に始まり、罪の購いや復活、或は永遠の命というものに対峙するや、文学的懐疑精神から福音信仰を妄評し始めた。

この信仰を疑い、苦悶した挙句に信仰を捨て去るという傾向は、西欧では、文学を宗教から切り離して考えるようになったセキュラリズムが、四百年ほど前から顕著になってきた。やがて日本における近代の文学者たちが、キリスト教に対して懐疑精神旺盛な時世に、既に西欧では、キリスト教の信仰を、ただの時代錯誤としてしか理解していない者の時代に突入していた。

一説によると、キリスト教倫理と近代文学に蔓延している悪魔主義的傾向との矛盾に煩悶して、文学者であるが故にキリスト信仰を捨てざるを得なかった。と、解釈する考え方もある。けれどもこの定見には、あくまでも西欧の文学者たちの理念を介しており、間接的、二次的要因であって、直接的にはセキュラリズムの末端に由来していると考えるべきである。

即ち、キリスト信仰の時代錯誤の時世に影響を受けて、日本における近代の文学者たちも、福音信仰を「時代錯誤」の産物であると首肯したのである。そしてこの思想に、更に水を向けたのが、1945年(昭和20年)815日の敗戦の日であった。

次に、日本の文壇が輩出した戦後のキリスト者を思慮する前に、まず、椎名麟三の名前を挙げておきたい。今から50年程前に、椎名麟三は『私の聖書物語』という信仰告白を『婦人公論』に連載している。

内容はやや主観的であるが、一切の衒いを感じさせない筆運びから、人の世に行なわれる節道や人倫の秩序といったものが、キリスト・イエスの御名によって吐露されており、虚無的な概念が打ち消されている。

後に上梓した『私の聖書物語』のあとがきに、麟三は次のように記している。「私のキリキリ舞いの姿に、人間の事実的な存在の姿を感じとっていただければ、筆者の私としては十分である。そして私にその十分さを認めることができるのは、おかしなことだが、私が聖書におけるキリストを信じている者であるからだ」。

また、プロテスタントのクリスチャンにとって、一等馴染み深い作家といえば、近年に昇天された三浦綾子である。

それでは、そろそろ紙面が尽きてしまうので、なるべく年代順を心がけながら、戦後におけるキリスト者の文人の名前を、浮かんできた順番に連ねていくことにする。

田中千禾夫、田中澄江、森 有正、椎名麟三、阿部光子、島尾敏雄、遠藤周作、佐古純一郎、三浦朱門、三浦綾子、矢代静一、小川国夫、曽野綾子、有吉佐和子、森 礼子、武田友寿、高堂 要、饗庭孝男、上総英郎、森内俊雄、他。

幸いなことに、椎名麟三や三浦綾子を始めとする戦後活躍した文学者のほとんどが、神こそがこの世の創造者であると認めており、イエス・キリストの磔刑によって吾が罪は購われて、その後の復活と永遠の命を信じる正統的な信仰者であった。

現代文学に、もはや信仰は存在していないと喝破されている昨今であるが、キリスト者の文人は、イエス・キリストの名の下に、何事でもすることが可能であることを知っているのである。