2015年4月30日木曜日

一人と独り

一人きりのサハラ砂漠
一人きりの太平洋
強迫観念が襲いかかる
独り 独り 独りの恐怖
屍の不安

どうにもならない厭世の幽鬱

2015年4月29日水曜日

がってんディナー

『がってん寿司』の食事券を貰いました。
早速、テイクアウト! 今夜は寿司ディナー
感謝を込めて家族みんなでお相伴。

日本の『ガッテン寿司』では、
合言葉は、「がってんしょうち!」イキの良い声が響きわたる。

日本に帰ったときに、阪急東通り商店街の鮨屋に入った。
職人に注文するとき毎回、「喜んで!」、「喜んで!」、「喜んで!」
耳にタコができました。


今夜のディナーは、喜んでいただきました。感謝感激雨霰!



2015年4月28日火曜日

透明

それがどうした 孤独
病気でも 僕が疑われる
孤独 私の心に 存在しない
世間は孤独だらけ
孤独は浸透する
孤独にも見放された・・・・・・俺も
孤独の裏返しの表返しの三角返しの丸返しの・・・罪返しの孤独 
おサラバする果てに 虚しさと孤独の透明返し


2015年4月23日木曜日

なぁ~

最近、仕事の量がめっきり減ったなぁ~
闘病生活足かけ七年、しょうがないなぁ~

今では未整理の資料と蔵書で、書庫と書斎は足の踏み場もないなぁ~
あのときが懐かしなぁ~

夜なべして物を書いて、ジャズを聴いて、酒飲んで、ふらりと夜のドライブしたなぁ~
朝食に、レストランで夜明けのステーキをほおばったなぁ~ 朝からワインやなぁ~

ここだけの話やけどなぁ、2019年までの分までコラム書いたったで~ 全部で約180コラムやなぁ~ 400字詰め原稿用紙やったら、540枚やなぁ~ 1年たらずで書いたわ~~ 暇やからなぁ~

嫁はんがなぁ、次から次へと書ける物あるねぇというとったわ 自慢やないけど わてはプロだっせ~

腹減ったなぁ~ 病気やなぁ~ いややなぁ~ どうしょうもないなぁ~

信仰があっても生身の身体やんか、投げやりになるときだっておませ~ やけくそになるなぁ~ 夢も希望もなぁ~ いらいらするなぁ~ 生きていてもしょうがないなぁ~ おわりやなぁ~


2015年4月21日火曜日

2015年・俳句 1

ゆめゆめと病全快蜃気楼 (春)

春暑し病魔克服年男 (春)

鍼治療一喜一憂春の夢 (春)

春の宵ベン訪れしサプライズ (春) 
(鍵和田先生が、ゆり子先生の自家製のパンとジャムを届けてくださいました。)

頬落とす手作りのパン春の虹 (春)

はんなりとジャムの夕べやリラの花 (春)

ジャカランダ甘い想い出ふくいくと (春・夏)

還暦やたわわに実るさくらんぼ (夏)

病魔から早七年に女郎花(おみなえし)(秋)

大厄や心にしのぶ彼岸花 (秋) 

黄昏にイブの幽香金木犀 (秋)

燃ゆる秋一人佇む渡月橋 (秋)


三冬やあたりめ炙りチロリ酒 (冬) 

2015年4月20日月曜日

黄昏につぶやく一人ごと 21

愛は生きること 憎しみは自分自身を責めること

これからどうなるのだろうか 神様に祈るしかない

一寸先は闇か光か 信仰で勝利するしかない


祈ることがたくさんある お願いするのがたくさんあるの間違えだろう

2015年4月17日金曜日

論文と鮨

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第17回ポエムタウンの応募要項

ポエムタウン 

日本から、全世界から詩歌の作品を募集しています。
『青少年部』、『成人の部』の詩、俳句、短歌、川柳を応募しています。
奮ってご応募ください。


詳しくは募集要項を見てね!

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2015年4月16日木曜日

駅弁

駅弁通は、最初に何を食べるのでしょう?

厚焼き玉子 牛肉の佃煮 鶏の照り焼き それとも煮物


正解は蓋についたご飯つぶ


2015年4月13日月曜日

助けてください!

いくら信仰があっても、僕は弱いものです。
聖書の御言葉を頭で知っていても、いざ、艱難が降りかかってくると不安になります。
ただ、たじろぐ。恐れる。

僕も生身の人間ですから、ものすごく弱いのです。ヨブのような強さは、僕には到底ありません。


ただ頼れるのは三位一体の神様です。助けてください!

2015年4月9日木曜日

会話ミックス

2回鍼治療に通っている。帰りにチャイナタウンによって毎回ご馳走になるもだから、胃の中にはフカヒレと北京ダックと魚介類がストック状態。

ジョイにもテイクアウトをしてくれる。治療費も出してくれる。リーさんご夫妻には感謝に堪えません。

今度はフランス料理か寿司バーをリクエストしょうと!

一つだけ難儀なことがある。英語とポルトガル語と中国語と広東語と日本語とずーずー弁でミックスして喋るものだから、ややこしくて聞き取りにくい。


サンキュー、オブリガード、シェーシェー、シェシエニ、ありがとう、ど~もない。

2015年4月7日火曜日

ジャンキーブルース

ジャンジャン ジャンジャン
わての立場がおまへんわ
そやさかいに座ってる
ジャンジャン じゃんじゃん
ジャンジャン横丁 新世界
串カツ 土手焼き 通天閣
飛田新地ええところ
ジャンジャン ジャンジャン
天王寺の亀があくびした
甲羅干し エサやりましか
じゃんじゃん ジャンジャン
千日前のキャバクラ ぼったくり ぼったくり
よく見たらねいちゃんオカマやでぇ~
ジャンジャン じゃんじゃん
御堂筋の黄昏の 北へまいります
梅田新道一丁目 なつかし なつかし
昔 振られたところ
ジャンジャン ジャンジャン
大阪駅 変わった 変わった 変貌ぶり
困った わからんがな おのぼりさん
じゃんじゃん ジャンジャン

ジャンキーブルース あーしんど

2015年4月6日月曜日

スティーブと川端康成

八年ほど前に、パサデナのオールド・タウンを独りで歩いていたら、背の高い痩身の男性から声を掛けられた。ひと目見てスティーブだと分かった。かれこれ三十年振りの再会である。彼とは、リトル東京にある日米文化会館内の日本語のクラスで知り合った。スティーブは日本文学に造詣が深く、流暢ではないが巧みな日本語を喋る。

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった・・・ 」
「美しい文章ですね。素晴らしい書き出しです」
 
往時、スティーブは川端康成の『雪国』の冒頭をしきりに褒めそやしていた。この僅かな文章の真相を捉えられるということは、俳諧に通じる感性がすくよかでなければならない。そこで、ぼくはスティーブに日本の短歌と俳句について訊ねると、彼は得意になって暗誦している芭蕉や蕪村の句を、すらすらと口走った。
 
川端康成の文章が巧緻である所以は、『雪国』の冒頭に関して論じるならば、明瞭簡潔にして、その状況が読む者の心を捉えて、各々の想像力が風花のように変化を遂げていくように、きりりと計算し尽くされて書かれていることである。

「国境の長いトンネルを抜けると、雪国(小説の舞台となる新潟県、湯沢温泉)であった」。そして、この後に「夜の底が白くなった」と短いセンテンスが続くのだが、この小さな一行は、「信号所に汽車が止まった」となって、最初の段落を結んでいる短文と書き出しの短文を繋ぐ、散文詩的要素と俳諧至情に准じる創作の技法が混交した、幻想的な風景描写となっている。この手法は伊藤整の言葉を借用するならば、「美の頂上を抽出する現象から省略」である。

その頃ぼくはスティーブに、本来『雪国』の冒頭は「国境の長いトンネルを抜けると、雪国であった」ではなかったのだと告げると、彼はテーブルいっぱいに乗り出して、訝った表情でぼくを見詰めた。

川端が『雪国』を脱稿させた時、「国境の長い・・・ 」の前に四百字詰め原稿用紙で三枚程度の文章が綴られていた。手元に関連の文献が見当たらないので詳細に欠けるが、自ら推敲したのか編集者に指摘されて改稿することになったのか、いずれにしても前の部分が削られた。

文章を客観的に透察できる能力を備えた編集人が傍らにいてくれることは、随分心強い思いがするが、ぼくが編集者から再三注意を受けるのが送り仮名の問題である。文脈の調子や字面、前後の文章によって好き勝手に通しているものだから、統一を計れとの通達があった。こだわると際限が無いことでもあるし、統一する方が編集作業に支障をきたさない。「たかが送り仮名」だ・・・。いや、「されど送り仮名」だ。

漢字や文字表記に至っては、新聞社や出版社では独自のマニュアルや、用語の手引きを基本としているようであるが、日頃、言論の自由を主唱して止まないジャーナリズムが、媒体の強制力をかざして、表現の自由を束縛する傾向にあることは言語道断である。

つい此間、日本にいる編集担当の若い男性が来米したが、その折に文法上の不備を論って真顔で指摘されたことがある。恐らくこの青年は学生時代から定型詩や自由詩をないがしろにして来られたのであろう。そもそも文体的要素の重要性は、動詞や名詞などの転用にあるが、主語、述語、修飾語などの順序を逆に配置する倒置法が全く理解出来ていない。閥が悪い青年には申し訳なかったが、ぼくは修辞学について語る羽目になってしまった。

韻文というものを十分に知得していない者が文章を書くと・・・ 堂に入った散文を書くことは致し難い。と、ぼくは考えている。ここで言う散文とは主に文芸のことであるが、総ての散文にも通ずることである。

従って、珠玉の随筆を期待したいのであれば、作家よりも歌人か俳人に執筆を依頼する方が、玄妙な味わいの文章を披露してもらえる。

スティーブとは互いの連絡先を交換して別れた。家に帰る道すがら、ぼくは泉康生という川端文学に傾倒していた小説家志望の男の顔を思い出していた。彼は同人誌に数編の秀作を発表していたが、配偶者が精神病院に収容された頃から創作活動が疎遠になり、暫らく経ってから自刃した。

川端康成の死因も自殺であったが、遺書がないために真相が明らかでない。一九六八年、ノーベル文学賞の受賞式へ向かう機内で、川端はこのまま飛行機が墜落して不帰の客となることを切望していた。数日後スティーブと電話で話した折に、ぼくがこのことに触れると「それは初耳ですね」。スティーブの声がオクターブ高く響いた。

ぼくがこの稿を書いたのは六月十一日。偶然にも川端康成が生誕した日と同じであった。