2015年9月4日金曜日

2015年9月3日木曜日

フード・トラック

わが家の近隣にフ-ド・トラックが、毎回同じところに何台も出没する。
主にメキシカン・フードだ。
3年あまり間、あちらこちらのフード・トラックで食べた結果、分かったことがあった。

黄色いのが繁盛しているフード・トラック
他のフード・トラックよりも、量が1割ほど多い。気前がいい。ソース・薬味・サルサ・チリ、
ホーム・メイドの焼き玉ねぎ、これでもかとふんだんにくれる。おまけに1ドルほど安い。

白いフード・トラックの方は、黄色と比べて味が格段に美味い。驚きの味だ!!! 
超美味しい!!! なのに閑古鳥。メチャうめいのに不思議やな~ なぜ!


アメリカ人は味よりも、ボリューム、おまけ、安価が決定的となる。僕はもっぱら白いフード・トラックのアサダ・ブリトーにはまっております。


2015年9月1日火曜日

 伝 道            

T・S・エリオット(詩人/18881965)の『宗教と文学』から先ず引用させていただく。
「私が望んでいる文学は、ことさらに、挑戦的にキリスト教的であるのではなく、むしろ無意識的にキリスト教的であるような文学です」

この文章の「文学」の部分を「伝道」と置き換えて読むことが出来ると思う。では、「無意識的にキリスト教的であるような伝道」とは、一体どのような「行為」であるのかを考えてみたい。

先ずエリオットはこの論文に於いて、「聖書が英文学に文学的な影響を及ぼしてきたのは、それが文学として論じられるものではなくして、<神の言葉>を伝える書物としての畏敬があったからです」とも述べている。

ヨハネによる福音書の第一章の冒頭には、「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた」と記されている。

また、旧約聖書のいたるところに、主の創造的、能動的な力強い言葉の概念が伺われる。
そこで、この神の言葉に対する、基本的な事実について触れてみたい。

言葉はギリシャ語でロゴスというが、同時に理性をも意味している。即ちロゴスとは、神の言葉と神の理性という二つの概念を意味する言葉なのである。よって神の言葉を読み、聴き、語るとき、そこに動的振る舞いとなる「行為」が伴わなければならない。

何故ならば言葉は被造物の一つではなくして、言葉は創造以前にあったからである。また、ヨハネは最後に、言葉は神であったと述べている。別言すれば言葉は神と全く同じ人格、本質であったという意味になる。

このように聖書は、神の真理である言葉によって書かれた書物であるが、人間の意識下に於いては、「真実は行為で示されて、それを飾る言葉がない」のである。この誠しやかな名句はシェークスピアの言葉であるが、神の言葉であるロゴスは、その理性によって行為が示されて、その行為は神の言葉の中から芽生えて来るのである。
私は「無意識的にキリスト教的であるような伝道」とは、伝道する者を前にして、多くを語るばかりではなく、一つの御言葉を深く語り終えた後に、キリスト者はその御言葉に倣って、無意識的にキリストの香りを放たなければならない。そうすれば、たとえ御言葉を語らなくとも、その時の状況に応じて、キリスト者としての行為が主に導かれて、相手に示されるのではないだろうか。

よってキリスト者は、絶えず心が解放されていなければならない。心にゆとりがなければ、どんなに祈っても御霊の実は結実しない。肥沃な土地を耕す時のように、キリスト者の心が砕かれてへりくだり、喜びと解放に満ちているならば、光り輝く聖なる霊がキリスト者の唇に油を注いでくださるのである。そこに伝道をするための知恵と力と言葉が与えられるのだ。

戦後、大方の日本人は豊かな生活を求めて、星をいただくほど仕事に打ち込んだ。潤沢な未来を夢見て働いたが、多忙になると離婚率が高まり家庭が崩壊し始めた。やがて各々が孤独に陥り、出社・登校拒否をするようになった。自殺者の数も増える一方である。バブル経済が破綻して十年以上経った今日、忙殺されてしまった数多くの魂の抜け殻が、日本列島に彷徨っている。

「心」を「亡」くすと書いて忙しいと読むが、勤勉努力した結果、最も肝心である心の問題がおざなりにされてしまった。

直ちに迷える同胞に明確な指針を与えるためには、真っ向から神様や聖書について語ることも肝要であるが、先ず、神の言葉を馥郁と漂わせる姿勢で、心と心が触れ合う行為を成すことであると思う。

日々の祈りの中で、これらの事が実行できるように、私も全身全霊をかけて真剣に祈ってみたい。