2011年9月20日火曜日

七変化

雄次は気の向くままに、どこまでも歩くのが好きだった。

淡雪が切々と降る京都の果樹園で、奈津子と初めて出逢った。雄次は一目奈津子を見かけた折から、身も心も奪わそうになった。

今日も果樹園に足を向ければ奈津子と会える。明日も、その次の日も、雄次は来る日も来る日も果樹園に通い続けた。

時は流れて奈津子から、大阪に住んでいる雄次のもとへ便りが届いた。
「あす、大阪の病院に入院します」

奈津子と知り合ってから三ヶ月余りが過ぎる。雄次は気をもんだ。

病室を訪ねると奈津子はブリムの無いニットの帽子をかぶり、薄化粧をして雄次を待っていた。雄次は生八つ橋を奈津子の前に差し出すと、奈津子の頬がほんのり鴇色(ときいろ)に染まった。

雄次は奈津子と初めての逢瀬のことを思い出す。鴨川のほとりに降りて、奈津子が作ってきたおにぎり、出し巻卵を食べた。冷たいほうじ茶の香りが誉れ高かった。

病室の窓辺に落暉(らっき)が沈む、この上なくしめやかな時空を奏でている。
奈津子が突如泣き崩れた。
「ごめんなさい 私は 私乳癌なの…… 」短い沈黙があった。
「乳癌がもとで甲状腺、肺、骨にも転移してしまった。隠すつもりはなかったわ」

再び短い黙然(もくぜん)があった。雄次の心は果てしなく凍てついた。
ありふれた慰めの言葉しか思いつかない。雄次はひざまずいて奈津子の両手を握りしめた。

今、奈津子に何もしてやれないなんて、雄次の目の前は無力の金縛り。

雄次は大型の鏡三枚と紫陽花を持って、奈津子のお見舞いに赴いた。鏡をコの字に並べて中心に紫陽花を置くと、どこまでも広がる紫陽花畑が見られる。その中に佇む奈津子は莞爾(かんじ)として微笑んだ。

「私 余命ふたつき だから私のお願い聞いてくださる」奈津子が囁いた。 

奈津子は長崎の大浦天主堂に行きたいという。日帰りなら外出の許可が下りた。タクシーと飛行機を利用して長崎へ急いだ。

長崎の街はどこへ行っても紫陽花の花が咲いている。ブルーの紫陽花の花が七色に輝く。奈津子の顔も桃色に映える。

大浦天主堂の入り口におかれている白亜のマリア像に、雄次と奈津子はしばし無言で対峙した。すると空から七変化の花びらが降り出した。夢のようなひと時を心地よく過ごした後で、やがて二人は天使となって、天の国へと帰って行った。

20年前、雄次は4歳年上の奈津子に、命を懸けて惚れぬいたのである。



※ 七変化……紫陽花の別称 

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