2011年9月1日木曜日

神なき国

5、6年前に読んだ毎日新聞のコラム『21世紀を読む』において、文化庁長官の河合隼雄氏が「日本的な宗教性、生かそう」と題して論じていた。
 
その中で、上田 篤著の『神なき国ニッポン』(新潮社)から引用して、日本人が西洋に赴いて、「あなたの宗教は何ですか」と問われて、「わたしは無神論者です」と答えたならば、座が白けるということを取り上げている。そんなことを発言すると、付き合ってくれないというのである。
 
河合氏の知己にあたる欧米の心理学者たちは、しばらく日本に滞在しているうちに「日本人の宗教性の深さに感心した」と述べる者が多くいるらしい。河合氏はこの発言に矛盾を感じながらも、果たして日本人が、どのような宗教を信じているのかとは問わずに、「宗教性の深さ」
と表現しているところが示唆的であるという。
 
僕が思うには、多神教的生活環境の下で生まれ育ってきた日本人には、特定の宗教だけを信心することがなかなか容易ではないのだと解している。例えば先祖伝来の宗教が○○宗であったとする。ご本尊が祀られてある総本山へお参りに行く道すがら、路傍にお地蔵さんが立っていれば手を合わせて拝み、神社の前を通り掛かれば賽銭を施し、大きな岩や滝に到るまで信仰の対象としてしまう。
 
河合氏の外国人の知己たちが察知していたのは、この八百万的宗教ではなくして、日本人から「宗教性」というものを見出していたのであろう。詮ずる所、日本人の「宗教性」には道徳や倫理である場合が多く、河合氏が語っているように「人間が人生の意味を考えると、宗教性が大切になってくる」。この言葉が生きてくるのである。

河合氏は今後の日本人は、これまで意識しなかった日本人の「宗教性」の意味をよく自覚して、それを新しい生活の中で、いかに生かしていくべきかを相当意識的に考えて実行していくべきであると主張している。

だが、僭越ながら「宗教性」に依存するような時代背景に私たちは今、生きているだろうかと熟考することの方が、意義深いのではあるまいか。

「宗教性の深さ」という示唆的表現には、『神なき国ニッポン』に対する、彼ら一神教の配慮された比喩であったのではなかろうかと、僕は考える。

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