2012年5月10日木曜日

旨柔い(うまやわい)

料亭の女将さんが教えてくれた。料理を味わいながら、畏まって「美味しい」と発する客よりも、「旨い!」と一言語気を強めて相好を崩す客の方が、味覚に対して敏感であると言う。もちろん男性の顧客のことである。

近年、美味しいとも、旨いとも表現をしなくなった食べ物がある。今時の大方の日本人は, 高級霜降り和牛を食した瞬間、先ず始めに「柔らかい!」と感嘆の声を上げてから、称賛の辞を連ねる。「柔らかい」は、佳美な霜降り和牛を味わって、誉めそやす時の代名詞となって久しい。

サーロイン・ステーキ(ニューヨーク・カット・ステーキ)は、焼きたてのものを素早く食べてしまわないと、時間が経つに連れて肉は硬くなり、味の方も見る見るうちに落ちていく。

アメリカの値頃なステーキでも、厚手のフライパンを使用して絶妙なタイミングと焼き加減に工夫をこらすことで、肉の表面は香ばしい超ウェルダンに焼き上がり、切り口はミディアム・アンド・ベリーレアーに仕上げるのがこつである。

一切れ口の中に入れてほおばると、豊味な肉汁がたちまちに口腔に広がり、肉の外側のワイルドな旨味と、余熱にまくしたてられる内側の葡萄(えび)色の身の部分が、味蕾の上で仲睦まじく至福のコンチェルトを奏でてくれる。これぞ「旨い」と「柔らかい」を同時に表現したくなる食感だ。

「神戸牛はじつに旨柔いですよ」。この旨柔いという表現を巧みに使いこなしていた初老の紳士と出会ったことがある。

「旨柔い!」 は、佳美柔らかな牛肉を食した折に、思わず発してしまう称賛の造語である。時は16世紀、英国のヘンリー8世は、旨柔らかく調理されたロイン(牛腰上部の肉)の料理を賞味されて大層気に入られた。ヘンリー王はご満悦のきわみに側近に命ぜられた。「余はこの滋味豊かなステーキに、直ちにSir.(卿)の称号を遣わす」

サーロイン・ステーキの名前の由来となった。

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