2012年3月31日土曜日

子供の目

授業中に児童たちが書いた詩の中から、担任の先生が秀作ばかり数編の詩を選び出した。教諭は日頃から詩歌に馴れ親しんでおり、子供の詩に対しても、深く理解の出来るまめやかな観察眼が備わっていた。

先生は子供たちの詩を幾つかの項目に分けて評価した。その後で客観的に詩全体を観る。ここまでは良いのだが、この先生が実際に心を惹かれて、選出の対象とした基準が別にもあった。

詩を書く前に説明しておいた約束ごとを守っていること、文字が綺麗なこと、そして習った漢字で書いているかどうか。

担任の先生は、詩の時間を国語の授業全体として捉え、詩作を通して生徒たちの理解力や、日頃の学習能力を推し測ろうとしていたのである。

この様なアプローチの仕方は、今後の授業展開において有益な礎となることであろう。だが、子供の目を通して書かれた純粋な「詩」が、誤った観点から評価の対象とし用いられるのであれば、詩作の才能が充溢している子供の能力を妨げることになってしまう。

児童詩は子供に提供される学習などではない。子供の目を通して書かれた無限の夢の発露なのである。


おとうさん/おおたに まさひろ
おとうさんは
こめややのに
あさ パンをたべる

いぬ/さくだ みほ
いぬは
わるい
めつきはしない

この短い二つの詩を読んで、子供のものを見る目の素晴らしさに感嘆しない人はいないだろう。灰谷健次郎さんは、後のほうの詩について、「この詩を読んだとき、わたしはからだのまん中がずーんとして、しばらくものがいえませんでした」と述べている。(「子どもの目」からの発想/河合隼雄 講談社文庫より)

スピルバーグの映画やアガサ・クリスティーのサスペンスを読む場合、第三者として作品を鑑賞するよりも、自分が主人公になったつもりで、その物語の中へのめり込んで行くと、そのスリリングな醍醐味は一味も二味も違ってくる。

子供の詩を鑑賞する場合でも、映画や推理小説を読むときの心得とまったく同様である。
先ず、子供と同じ目の高さで物事を捉えて考えること。子供の書いた詩を読むのではなく、童心に返って、友だちが書いた詩を読むようなつもりで読む。あらゆる先入観を排除するように心がける。子供にしか見えない鋭い観察力を察知する。発想の多様性を理解する。

また、子供の目になって児童詩に接していると、不思議と子供の詩が書けるようになって来る。子供の心の中に芽生えたわくわくする詩の世界を、深く理解してやりたいために、僕は時たま子供に返って詩を綴る。

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