2014年12月18日木曜日

不安

「杞憂」とは古代中国で、杞の国の男が、もし天地が崩れ落ちたら身の置き所がないだろうと心配して、夜も眠れず食事もとれなかったという説話によるものである。

取り越し苦労もあまり度が過ぎると、心身に様々の症状があらわれて病気になる。

文豪、谷崎潤一郎は小学生の時分に、母親との分離不安から今でいう登校拒否、学校恐怖症に陥り周囲のものを困らせた。

二十世紀前半のドイツの代表的詩人リルケが、自身の内面を告白した『マルテの手記』に、次ぎに引用した不安の極致を記している。

「寝衣の小さなボタンが、僕の頭より大きくないかという不安。うっかり眠ってしまうと、ストーブの前に落ちている石炭のかけらが、飛び込みはしないかという不安。なにかの数字が僕の頭の中で大きくなり始めて、ついに僕のからだのなかにおさまりきれなくなりはしないかという不安。そして、また、様々な不安……不安」

未来志向の人間にとって、過度の不安が長期にわたって継続すると、ストレスがたまり神経症や身体の不調を訴えざるをえない。

不安と絶望の哲学者キェルケゴールは、無力さを自覚し絶望の境地に達したとき、神の前に自己のすべてを投げうった。すると生きる力がわき、杞憂と不安を克服しょうとする意欲がみなぎった。

イエスは語っている。「空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養ってくださる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者でないのか。あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができょうか」(新約聖書)

聖ペテロが「神はあなたがたをかえりみていてくださるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい」(新約聖書)と薦めているように、全てのおこないにおいて、

神の摂理に頼れる特権があることを忘れてはならない。

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