2014年7月28日月曜日

ニューヨーク


同時多発テロ発生後、一ヶ月余り経過してから、詩のコンテスト『若き詩人たちの集い』の審査委員会に出席するためにニューヨークに赴いた。選考を終えた翌日、帰りの飛行機の便まで暫らく時間があったので、一晩お世話になった郊外の知己の芳館から、マンハッタンまで車で送ってもらい、グリニッジ・ヴィレッジのブルーノートの前で降ろしてもらった。
 
時刻は午前十一時前、ひとまずジャズは諦めてヴィレッジ界隈を散策することにした。前週末、ジョー・ヘンダーソン(テナーサックス奏者)のガールフレンドから電話がかかって来て、「来週ニューヨークに出向いた折に、私と一緒にジョーの告別式に出席して欲しい」と希求された。チック・コリアもハービー・ハンコックも、仕事にかまけて欠席を告げて来たことが、彼女にはとても寂しかったらしい。ぼくとしても唐突な申し出の返答にとまどった。LAに戻ったら直ちに、ゴスペル・コンサートの準備が控えているので、双方のスケジュール次第である。
 
ジョー・ヘンダーソンが歿して直ぐに、彼女はダウンビート誌のインタビューに応じている。ジョーのガールフレンドとぼくは不思議なくらい意気投合するので、彼女は電話口で、まだ誰にも語っていないジョーのエピソードを、堰を切ったように話し出した。
 
スタン・ゲッツとジョーの友情について、セロニヤス・モンクとチャーリー・ラウズの親交、グラミー賞受賞秘話、ジョーのサックスの話、ブルーノート(東京)ドタキャンの真相。ペッパー・アダムスの隠れた才能、etc 。ジャズ好きのぼくにとっては、どれもこれもが興味深い話ばかりである。
 
中でも一番深く印象に残ったのは、生前、ジョー・ヘンダーソンはビル・エバンスのピアノ奏法について、「昼間聴くべき演奏であって、深夜は聴くに耐えない」と評していたことだ。
 
時刻は午前十一時四十分、この辺りはグリニッチ・ヴィレッジとクリストファーの境目、両側にアパートが立ち並ぶ街路を歩いていた時だ。「はて、ちょっと待てよ、この光景は以前何処かで見たことがあるぞ」。ぼくは十フィートに満たない僅かな隔たりを右往左往しながら、気がつけば、ほぼ直角に顔を仰いで、身体をぐるぐる回転させていたのである。

やがて記憶の綴れが紐解かれた。「あっ、そうか」、脳裏でぽんと手の打つ音が聞こえた。
ずんぐりした煉瓦づくりのアパートの壁に、一本の古い蔦のつるが這い登っている。三階建てのてっぺんには、若いスウとジョンジーが共同のアトリエを持ち、彼女たちの下の階には売れない絵描きのベアマン老人が住んでいる。
 
ぼくが今立っている小路に寸断されている「プレース」は、ワシントン・スクエア西の小さな区域で芸術家の村だ。そう、ここは紛れも無くO・ヘンリーの短編小説「最後の一葉」の舞台となった建物に違いない。ぼくは合点して欣快になった。
 
午後二時丁度。ソーホー、リトル・イタリーと歩いて来て、チャイナ・タウンに到着した。それにしても何と生気に満ち溢れた街なのだろう。道幅の狭い道路は日本の交通渋滞を彷彿とさせて、自動車のクラクションが喧喧諤諤と鳴り渡る。白、黒、紅、黄の人の群れが、鵜の目鷹の目で移動していくのだが、案外と商店の人々の眼は冷静で醒めていた。極彩色の酒家の看板は、年中祝意を表した満艦飾。レストランに入る前に、ぼくが吸い込まれた四坪程の小さな店舗は、足の裏マッサージ医院。

七十絡みの中国人らしき男の指圧師は、ぼくの膝から下を入念に揉み解し始めた。野球のグローブのような厳つい手の指は、孟宗竹が発芽する時の同じ勢いで、ぼくの足の甲から土踏まず、指の先を、まるで土塊をこねる時のような手つきで、隈無く圧縮して引っ掻きまわす。ぼくは激痛を予知していたのだが、大した疼きを感じないまま両脚が軽やかになって、ひと時の慰安にまどろんでしまったのである。
 
十月二十九日、午後七時五分。この稿を書いている最中に、ジョーのガールフレンドから電話がかかって来た。再びスタン・ゲッツとジョーの友情の話、秘蔵ビデオの話題、彼女と年内に会う約束をして電話を切った。
 
0・ヘンリーが生涯、心から愛したのは夭折した可憐な妻エイソルと、ニューヨークの街。生活費を稼ぐために、銀行で出納係をしていたO・ヘンリーは、妻の死後、横領の罪を問われて裁判で有罪となり、五年の刑期が確定した。彼は煩悶の果て、エイソルの奨めによって書き始めた小説を、刑務所の中で再び執筆し始めた。
 
この刑務所での体験が、もし彼に無かったならば、アメリカ文学史上に遺る偉業は閉ざされて、世界中の人々に感銘を与えることは無かったのである。O・ヘンリーは正にアメリカのモーパッサンであった。
 




0 件のコメント:

コメントを投稿