2016年9月1日木曜日

                   全身全霊を賭ける

 世界中の子供たちが応募してくる図画コンクールで、金賞を受賞した作品数点を鑑賞した。どの絵画を観ても発想、構図、配色に優れていて度肝を抜かされた。その瞬間、ぼくの体は熱く熾り、血液の色が萌黄色へと変色した。やがて新鮮な感動が、ぼくの体の中を駆け抜けて行くのが分かった。
 
子供たちが描く絵画や詩を鑑賞していると、斬新かつ無尽蔵の感性に目が釘付けになる。詩は言葉の問題があるので、世界規模のコンテストは難しい。その点、音楽や美術の世界は言葉の壁を超越して、お互いの作品を理解し合える。ぼくは子供たちの詩画を鑑賞するのが大好きだ。新しい手法を発見したり、子供離れしているテクニックに驚嘆する。

 ぼくは今、『詩の見方』と題したエッセイを新聞に連載しているが、子供たちの詩を通して学ばされる事が数多とある。純真無垢な児童たちの詩に没頭しながら、可憐なひと時を過ごせることは、ぼくにとって至福の至りであるが、ものを書いていると全く懸け離れた原稿の依頼が、突然、飛び込んで来る。
「日本の雑誌に、日本人を超辛口で批判するニッポン考を書け」、「コラムを差し替えたいので、今から君が書いて一時間後にメールしてくれ」、「ジョージ武井著の、翻訳と出版のプロデユースを頼む」、「カリフォルニアの刑務所の独房で、18年間過ごしている終身刑の詩人の出版を手伝え」、「ハリウッドの俳優と離婚した、元妻であった日本人のゴースト・ライターを引き受けてくれないか」。最後は暴露本だったのでお断りした。

話は変わるが、先日ニューヨークへ出張するべく夜間飛行の便に搭乗したのだが、乗り継ぎの便がエンジントラブルで欠航したために、ラスベガスで足止めを食らった。明日の朝一番の便でニューヨークへ向かっても、マンハッタンに到着したら夕刻を回っている。それでは仕事にはならないので、ぼくは予定を変更して、6時間掛けてグレイハウンドバスに乗ってロサンゼルスに戻ることにした。

バスの出発時刻まで小一時間程あったので、ぼくは近隣のホテルのスナック・バーでホット・ドックを頬張りながら、ピアノの生演奏を聴き入っていた。時刻は平日の午前2時だというのに、カジノには大勢の人だかりが見える。時折、ルーレットのテーブル辺りから、甲高い喚声が上がる。みんな酒を呷り、煙草を吹かしながら、ギャンブルに興じる上気させた顔つきは真剣そのものだ。
そんな光景を目の当たりにしながら、ぼくはつと考えた。ギャンブルで繁栄し続けている不夜城、ラスベガスの街を見て、『菊と刀』を書いたベネディクト風に言えば、真面目なアメリカ人は罪であると感じ、勤勉な日本人であるならば国の恥だと思うところである。

独立宣言書は『旧約聖書の創世記』を前提にして記されている。初代大統領のワシントンは、「賭博は貧欲の子供であり、不正の兄弟であり、不幸の父である」と述べた。

 パスカルは神の存在に賭ける方が、神の非存在に賭けるより、遥かに合理的な選択であるという論理を『パンセ』の中で談じている。これは単に損得だけの論議ではない。精魂を傾けて神に賭けた以上、具体的な実践の手掛かりがつかめて、聖書に啓示された神の言葉を、「絶対なる威光」として受け入れることが出来るのである。


 人生を欲望への賭けとして歩まないで、望んでいる事柄を確信して、まだ見ていない事実を確認する事の出来る、神に称賛される信仰と希望と愛に、全身全霊を賭けようではありませんか。

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