2013年4月22日月曜日

詩の見方(その2) ― 主観について ―


萩原朔太郎は『詩の原理』(新潮文庫)の中で、「詩の本質は「主観」であり、実に主観以外の何ものでもない」。と言い放っている。即ち、主観の芸術とは、「観照ではなく、現実の充たされない世界に於いて自我の欲情する観念(理念)を掲げ、それへの止みがたい思慕からして、訴え、嘆き、哀しみ、怒り、叫ぶところの芸術である」。と釈義している。

更に、「一切の芸術には、主観派と客観派にわかれ、表現の決定的な区分をしている」ことを論じている。朔太郎は主として自然の風物を詠む俳句は客観的で、恋愛等を歌う和歌は主観的であると説く。また、西洋の詩や中国の詩にいたっては、俳句以上に主観的で、作者の人生観や哲学を、強く情熱的な調子で歌いだしていることを解説している。

詩の「本質」が「主観」であることは明確であるが、総ての芸術を主観と客観に分類して、「詩」を主観以外の何ものでもないと道破すること事体が、真の主観主義以外の何ものでもないと、糾弾せねばならない。

ここで私は、エリオットの「詩論」について思いを巡らせていた。「詩とは、感情の解放ではなく、感情からの脱出であり、人格の表現ではなくて、人格からの脱出である」。これは私が共感を覚える「詩論」の一つであるが、畢竟(ひっきょう)するに、エリオットは感情の解放や人格の表現といった、主観の解放や表現ではなくして、むしろ主観からの脱出であるというのである。

本来、詩の「本質」である「主観」を、自己の深い内面に一度葬って脱出することによって、感情や表現が圧縮されて変形されながら、破壊していくのである。この創造と破壊こそ、客観性と主観性の融合であり、「詩」の根本的「本質」と呼ぶに相応しい一切の軋轢を排除するものと言えよう。

また、主観の芸術が訴え、嘆き、哀しみ、怒り、叫びの芸術であることはよく理解できるのであるが、同時に忠実、平安、喜び、平和、柔和の芸術であることを、脱漏させてはならない。

例え、詩人の全主観で綴られた「詩」に於いても、その作品を読んで、味わう人の心の状態によって、変化を続けていくのである。

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