2012年4月17日火曜日

悲しみを友として

夜、寝室のバスルームで咳き込んだ際に、傍らにいた2歳半のジョイが「咳をしても一人」と口走った。尾崎放哉の自由律の句である。

ジョイが最初に暗誦した俳句は「柿喰えば鐘が鳴るなり法隆寺」(正岡子規)。遊び半分で始めたつもりだったが、三つ子の魂は水を吸い取るスポンジの勢いで、次から次へと俳句を吾がものにしていく。

「眞砂なす数なき星の其の中に吾に向かひて光る星あり」子規の短歌が思わず口をついて出た。子規の短い後半生は、病との闘いであった。23歳の時に喀血した子規は、血を吐いて死ぬ時鳥(ほととぎす)から、同じく「ほととぎす」と読む子規と号した。

36歳で不帰の客となるまでの約2年間、結核は脊髄を蝕み、激痛に号泣しながら塗炭の苦しみを舐めた。

「病床六尺、これがわが世界である。しかもこの六尺の病床が余には広すぎるのである」連日病床に呻吟しながら、新聞『日本』に連載した『病牀六尺』は、正しく子規の絶叫であった。

「病人は健康な者よりも自己の魂により切迫するものだ」このようなことを語ったのは確かプルーストだったと思う。

1989年、45歳の時に、大野勝彦さん(詩画家)は農作機で両前腕を切断、失意のどん底で自己の魂に切迫し続けた。病や不慮の事故などで肉体が苦痛の極限に達すると、煩悶の果てに精神が解放されて浄められる。

やがて彼が表現する詩歌や絵画の数々は、人々の心に感動を与えて、生きていくことへの勇気と希望をもたらしてくれる。

スペインの女流詩人カストロは詩に書いている。 運命にもてあそばれ 賤しい芒(のぞき)のように/わたしは さびしく さまよった/けれど すべてをつれていた わたしは/悲しみを 友として つれていたから(長南 実訳)

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