2015年3月4日水曜日

コミュニケーション

同じ国の人間同士が、母国語で幾度も話し合った結果、言った、言わないでもめることがある。誰にでも一度や二度はこんな経験があるだろう。

コミュニケーションの場で、自分の意見を主張することばかり優先させてしまうと、誤解を招きやすい。むしろ他者の意向を尊重しながら、臨機応変に好適な手段を施すことが肝要である。
 
ところが議論が始まってしまうと、つい熱くなってしまい冷静さに欠けることがある。わかってはいるが「言うは易く行うは難し」である。
 
過日、ある壮齢の日本人女性と出会った折りに、「私はアメリカに長く住んでいるので、はっきりとものを言います」と述べられた。
 
会話の中で、イエスとノーの区別をはっきりさせることは良いことだ。けれども、単刀直入型の対話形式に重点をおきすぎて物腰が粗雑であると、相手の心情を傷つけるばかりか、悪い印象だけが残ってしまう。
 
良識のあるアメリカ人の言動には、物事をはっきりと述べ伝えるかわりに、ユーモアとウイットを交えて、他者に対する心配りが実に巧みだ。
 
物事を明確に伝えるということは、伝えている人への思いやりを忘れてはならないということなのだろう。 
 
また議論で勝とうなどと思ってみたり、きょうこそは、はっきり言ってやるなどと考えるよりも、まず相手を受容することから始めてみたい。
 
チェーホフの受け売りだが、優しい言葉で相手を得心させられないような者は、大それた言葉の羅列でも説伏(せっぷく)できない。
 
同じくイランの詩人サーティーの言葉を潤色してみた。ことばもて、人は獣に優る。けれども、柔和な面持ちで正しく語れないのであれば、獣、汝に優るべし。
 
 

 

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