2014年2月3日月曜日

強欲

或る新興宗教の歩みを編んだ書籍を読んだことがある。この本の中で紹介されている写真には、女教祖の日頃の風姿が活写されていた。大御殿での生活と高級外車、高価な和服を身に纏って、指には大きな宝石の付いた指輪をはめている。数枚の写真から、女教祖の贅沢な生活振りが窺える。
 
生活をして行く上でお金は不可欠な物である。給料が上がれば誰でもが嬉しいし、仕事の評価には必ず金銭が絡んでくる。事業が成功するに伴い、収入が倍増すれば心も豊かになり、生活が派手やかになるのが世の常である。

「主よ、感謝します」と祈る際に、懐が温かい時には笑顔で祈れるが、金欠病で万事休す場合の祈りの表情は、とかく沈鬱である。

1933年に発表されたコールドウェルの創作『God’s Little Acre(神の小さな土地)の主人公タイ・タイ老人は非常に信心深い人物である。タイ・タイ老人は南部の15エーカー(約18000坪)にも及ぶ不毛の土地に愛想を尽かし、金鉱を掘り当てる夢を見て15年が経過した。

信仰心の深いタイ・タイ老人は、1エーカーの小さな土地を神に捧げて聖別し、その濃地に実る作物をお金に替えて教会に納めることにしている。ところが、一向に金鉱を発掘する事ができないので、タイ・タイ老人は金鉱は神に捧げた土地の下に眠っているのだと過信する。

信心深いタイ・タイ老人は神に捧げたはずの土地を、物欲のために移動し続けながら、挙句の果ては黒人の迷信にまですがって、アルピーノ(白っ子)を連れて来るが金鉱を探し当てる事はできなかった。

壮絶を極めるのはこの物語の後半である。タイ・タイ老人は思わず息を呑むほどに美麗な、次男坊の嫁グリゼルダの肉感美を事あるごとに賛嘆する。結末は長男と義理の弟がグリゼルダを奪い去ろうとして、二人共射殺されてしまう。

敬虔な信仰者であるタイ・タイ老人の行動は、正に矛盾に満ち溢れている。だが、この物欲である罪は、一人びとりの人間の心の中に潜んでいるのである。

「財産のあるものが神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」マルコ1023 

「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうが、もっとやさしい」マルコ1025

人間、事が順風満帆に捗れば捗るほど、富と誉れに対して、したたかな貪欲さを剥き出してくる。ドイツの詩人リュッケルトは、勤勉によって富を得、またこれを善く使いうる者にとってのみ、富はよし。と言ったが、これは一つの奇跡に等しい。

中国の儒者荀子は、もし富を得たいのであれば、恥じを厭わず命の限り全力を注げ。旧友との交際を絶ち義理に背け。と手厳しい。

だが、いったん富を手中に収めた野心家は、更には、もうどうにも止まらない名誉欲が、泉の如く罪の海溝から湧き上がって来るのだ。

また、偉くなりたい、人々から称賛されたいと思う気持ちは誰にでもあるが、福音書にはこのように記されている。「あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである。」 マルコ104445


二十世紀初頭、ラジウムの発見など科学上の業績により、ノーベル賞を二度受賞したキュリー夫人は、ラジウム製造の権利を営利企業と提携すれば巨万の富を築くことが出来たが、貧乏のどん底にありながら、疾病の治療に使うラジウムで金満になることは科学者とクリスチャンの精神に反するとして、この偉大なる功績から一銭のお金も受け取らなかった。

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