2013年9月23日月曜日

クリスチャン必読の本

今から凡そ200年前、すなわち近代ドイツ文学の古典主義とロマン主義の間の時代に、奇異な三大詩人(ヘルダーリン、クライスト、パウエル)が活躍していた。
 
その中の一人であるクライストは、自分の生涯を「人間がいとなんだ最も苦悩的なもの」と叫んでいたが、書物の名前は覚えていないのだが、彼の散文作品の中で次のようなことが書かれてあったことを記憶している。

「神の存在を認めようとしない辛辣な口調で書いた本は数多くあるが、悪魔の存在をあっさりと否定した無神論者は、未だかつていないようである」。
 
また、エドワード・ヤングというイギリスの牧師は、「夜になると、無神論者も半分は神を信じるようになる」と述べているが、これらの短い語句の中に、人間の不安に対する普遍 的な観念が色濃く覗いているようだ。
 
無神論者の多くが悪魔の存在を否定しない所以は、不安が原罪の前提に存在するからなのだろうか。私は時折、俳句とも一行詩とも定まらない言葉遊びに興じる事がある。南カリフォルニアでは珍しく底冷えのする先々月の深夜に、「不安 不安でないから恐ろしく不安だ」と、短い詩を詠んだのだが、今から150年程前にキェルケゴールが『不安の概念』の中で、「不安は或る共感的な反感であり、そうして、或る反感的な共感である」と、夙に論じていたのである。

このように不安は心理的な二義性を含んでいる。その夜、私は『不安の概念』(斎藤信治訳/岩波文庫)を読み返すことになったのだが、キェルケゴールに代わって平易な解題をさせて頂くと、罪を犯す前の純真無垢なアダムとエバは、最早不安であったというのである。詮ずる所、無垢は無知であり、聖書によれば人間は無垢の状態においては善と悪を識別する知識を有していないからである。よって、無は不安をつくりだし、無垢は同時に不安である。人間の精神は夢を見ながら、自己自身の現実性を前に投影する。現実性は無であるから、この無を無垢はたえず自分の前に見ているのである。
 
また、キェルケゴールは、不安は自由の可能性であると言い、信仰と結びついている不安について論じているのであるが、彼が詳解している『不安の概念』について論戦を展開させていくと枚挙に暇がないので、この辺りでとどめておくことにしたい。
 
さて、悪魔の存在については、三段落目で記しているように、神の存在を容易に否定する無神論者であっても、悪魔の存在を否む者は皆無であるとクライストは述べているが、イギリスの詩人ミルトンの創作『失楽園』(Paradise Lost)の主人公はサタンなのか、それともアダムなのかは、古来より議論の分かれるところである。私はミルトンが描いていた当初の構想に反して、結果的にはサタンの主人公説を支持している。何故ならば、この崇高にして迫力のあるサタン像こそ、多くの読者を夢中にさせて一世を震駭させたのであるから。

『失楽園』は18世紀に入ると英国では評価と発行部数に於いてシェイクスピアをしのぎ、長期にわたって欧米諸国の人々の心を捉えていた。カントはこの比類のない尊厳美を絶賛しているのだが、私はむしろサタンの描出を中枢とした、未知へのリアリズム手法の傑作として『失楽園』を高く評価したい。いずれにしても起稿直前に失明するという逆境の暗闇の中で、ミルトンの前に仁王立ちするサタンとの壮絶極まる魂の格闘に、私は想像を絶してしまうのである。

何年か前の聖会のメッセージで、大川道雄師(現在は引退牧師)、クリスチャン必読の書として推薦しておられた本が三冊あった。その一つが『失楽園』である。そして他方の一つはルネサンス(文芸復興期)直前に活躍したイタリアの詩聖、ダンテが書き上げた『神曲』である。この作品は『地獄編』、『煉獄編』、『天国編』の三部構成になっていて、特に『地獄編』は読み応えがある。作中のダンテが最も憎悪しているのは、聖職者たちの、あらゆる欲望に吼えたぎる餓鬼のような姿である。

三冊目の『天路歴程』(The Pilgrim’s Progress)の作者バニヤンは、教育も受けず鍛冶職人として働いていたが後に牧師となった。だが非国教徒であったがために迫害されて監禁、『天路歴程』は獄中で執筆された作品である。主人公には固有名詞がないが、人格のある罪にめざめたピューリタンの凱旋物語。


これらの作品は、私も大川道雄先生と同じく、クリスチャンの皆さんに是非とも読んでもらいたい創作である。

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