2015年4月6日月曜日

スティーブと川端康成

八年ほど前に、パサデナのオールド・タウンを独りで歩いていたら、背の高い痩身の男性から声を掛けられた。ひと目見てスティーブだと分かった。かれこれ三十年振りの再会である。彼とは、リトル東京にある日米文化会館内の日本語のクラスで知り合った。スティーブは日本文学に造詣が深く、流暢ではないが巧みな日本語を喋る。

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった・・・ 」
「美しい文章ですね。素晴らしい書き出しです」
 
往時、スティーブは川端康成の『雪国』の冒頭をしきりに褒めそやしていた。この僅かな文章の真相を捉えられるということは、俳諧に通じる感性がすくよかでなければならない。そこで、ぼくはスティーブに日本の短歌と俳句について訊ねると、彼は得意になって暗誦している芭蕉や蕪村の句を、すらすらと口走った。
 
川端康成の文章が巧緻である所以は、『雪国』の冒頭に関して論じるならば、明瞭簡潔にして、その状況が読む者の心を捉えて、各々の想像力が風花のように変化を遂げていくように、きりりと計算し尽くされて書かれていることである。

「国境の長いトンネルを抜けると、雪国(小説の舞台となる新潟県、湯沢温泉)であった」。そして、この後に「夜の底が白くなった」と短いセンテンスが続くのだが、この小さな一行は、「信号所に汽車が止まった」となって、最初の段落を結んでいる短文と書き出しの短文を繋ぐ、散文詩的要素と俳諧至情に准じる創作の技法が混交した、幻想的な風景描写となっている。この手法は伊藤整の言葉を借用するならば、「美の頂上を抽出する現象から省略」である。

その頃ぼくはスティーブに、本来『雪国』の冒頭は「国境の長いトンネルを抜けると、雪国であった」ではなかったのだと告げると、彼はテーブルいっぱいに乗り出して、訝った表情でぼくを見詰めた。

川端が『雪国』を脱稿させた時、「国境の長い・・・ 」の前に四百字詰め原稿用紙で三枚程度の文章が綴られていた。手元に関連の文献が見当たらないので詳細に欠けるが、自ら推敲したのか編集者に指摘されて改稿することになったのか、いずれにしても前の部分が削られた。

文章を客観的に透察できる能力を備えた編集人が傍らにいてくれることは、随分心強い思いがするが、ぼくが編集者から再三注意を受けるのが送り仮名の問題である。文脈の調子や字面、前後の文章によって好き勝手に通しているものだから、統一を計れとの通達があった。こだわると際限が無いことでもあるし、統一する方が編集作業に支障をきたさない。「たかが送り仮名」だ・・・。いや、「されど送り仮名」だ。

漢字や文字表記に至っては、新聞社や出版社では独自のマニュアルや、用語の手引きを基本としているようであるが、日頃、言論の自由を主唱して止まないジャーナリズムが、媒体の強制力をかざして、表現の自由を束縛する傾向にあることは言語道断である。

つい此間、日本にいる編集担当の若い男性が来米したが、その折に文法上の不備を論って真顔で指摘されたことがある。恐らくこの青年は学生時代から定型詩や自由詩をないがしろにして来られたのであろう。そもそも文体的要素の重要性は、動詞や名詞などの転用にあるが、主語、述語、修飾語などの順序を逆に配置する倒置法が全く理解出来ていない。閥が悪い青年には申し訳なかったが、ぼくは修辞学について語る羽目になってしまった。

韻文というものを十分に知得していない者が文章を書くと・・・ 堂に入った散文を書くことは致し難い。と、ぼくは考えている。ここで言う散文とは主に文芸のことであるが、総ての散文にも通ずることである。

従って、珠玉の随筆を期待したいのであれば、作家よりも歌人か俳人に執筆を依頼する方が、玄妙な味わいの文章を披露してもらえる。

スティーブとは互いの連絡先を交換して別れた。家に帰る道すがら、ぼくは泉康生という川端文学に傾倒していた小説家志望の男の顔を思い出していた。彼は同人誌に数編の秀作を発表していたが、配偶者が精神病院に収容された頃から創作活動が疎遠になり、暫らく経ってから自刃した。

川端康成の死因も自殺であったが、遺書がないために真相が明らかでない。一九六八年、ノーベル文学賞の受賞式へ向かう機内で、川端はこのまま飛行機が墜落して不帰の客となることを切望していた。数日後スティーブと電話で話した折に、ぼくがこのことに触れると「それは初耳ですね」。スティーブの声がオクターブ高く響いた。

ぼくがこの稿を書いたのは六月十一日。偶然にも川端康成が生誕した日と同じであった。

 


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