逆さまにぶら下つた牛ののどから
血があふれる
ざあ・あ・あ・あー
音を吸いこんであふれる
コンクリートの床を染めて
ひろがる血のいろに
女のつめたい横顔がだぶる
紅い帯をきりりと
腰に巻きしぼつていつて
いのちの根をちよんと引きぬく
物質だけが残る
瞼に 人間の手がかかると
脚が横倒しになる
恐怖の速さで
つぎに ゆつくりと
脚がふるえてえがく半円
一日四百頭がえがく脚の半円
天井のレールをすべつて
肩にぶちあたる肉
ぶあん
ぶ厚い脂肪の弾力と
血のにおいのなかで見失う
愛とか悲しみというものの実体
いのちをなくして恋人が
交歓する
屠殺待ちの小屋に夕陽がさして
去勢牛が交尾した
「屠殺場で」は、滝口雅子の第二詩集『鋼鉄の足』(昭和35年)に収録されている。同年に第一回室生犀星賞を受賞。
日本現代詩人会の創設者の一人である村野四郎は、この詩について以下のように敷衍(ふえん)している。「男」にさいなまれる「女」の酷さと悲しみのイメージをダブらせている。「紅い帯をきりりと/腰に巻きしぼつて」愛のない男の性欲に殺される女のむごさと哀れさとが、横倒しになって空間にもがく牛の脚の光景と入りまじっている。(中略)もはや愛も悲しみもありはしない。(中略)肉体だけの交わりに引き裂かれる女の苦悩と悲哀とが、屠殺場の血の中に感じとれるように描かれている。
実に興味深い鑑賞能力であるが、女が男にさいなまれることや、愛のない男の性欲に女が翻弄されてしまうことなど、とどのつまりは、肉体だけの交わりに引き裂かれる女の性というものが、いまひとつこの詩の中から、つかみきれないように思う。また、愛がないというが、「いのちをなくして恋人が/交歓する」と綴られていることも気にかかる。
「屠殺待ちの小屋に夕日がさして/去勢牛が交尾した」という結びは、推敲することによって、さらに秀逸した詩へと変貌を遂げる。ともあれ、最後に一行はみごとな表現である。
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