バディ・デフランコ(クラリネット)の「ニューヨークの秋」を聴いていたら、プーシンキンの詩をにわかに諳んじていた。
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野末にのこる遅咲きの花は/あでやかな初花よりも愛(めず)らしく/はかない夢のよすがともなる/人の別れのときも/あまい出会いのときよりもふかく/こころにのこることもある
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「会うは別れのはじめなり」とは、元々は仏教の言葉で『会者定離』(えしゃじょうり)という。時代には関係はなく洋の東西を問わず、人間は出会う時の喜びよりも、別離の傷心の方が哀しみ深いようだ。
谷崎純一郎は書いている。「誰でも別離は悲しいものにきまっている。それは相手が何者であろうとも、別離ということ自身のうちに悲しみがあるのである」。(『蓼食う虫』より)
唐詩選の五言絶句の中に『人生足別離』の一句がある。井伏鱒二が林芙美子にすすめられて、一緒に三ノ庄まで足をのばした。
島を離れる時、彼らを見送る人たちが十人ほど岸壁に来て、船の出発の汽笛が鳴ると「さよなら さよなら」と手を振った。
林もしきりに手を振っていたが、いきなり船室に駆け込んで、井伏に「人生はさよならだけね」と言うと泣き伏した。
後に井伏は「人生足別離」を「サヨナラダケガ人生ダ」と和訳した。林芙美子の言葉(せりふ)を意識していたのである。
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