夕焼け小焼けの、赤とんぼ
負われて見たのは、いつの日か
山の畑の、桑の実を
小籠に摘んだは、まぼろしか
十五でねえやは、嫁にゆき
お里のたよりも、絶えはてた
夕焼け小焼けの、赤とんぼ
とまっているよ、竿の先
国民的動揺『赤とんぼ』は、詩人の三木露風が大正9年(1920)に作詞している。その後、昭和2年(1927)に山田耕筰が作曲を手掛けてから、日本全国で『赤とんぼ』の唄が親しまれるようになった。
さて、大正9年(5月)は、露風が北海道のトラピスト修道院に講師として赴任した年である。おそらく露風は住み慣れた東京を離れて、懐旧の念にとらわれながら、生まれ育った故郷(兵庫県龍野町)のことを思い出しながら『赤とんぼ』の歌を作詞したのだろう。
「夕焼け小焼けの赤とんぼ」も、「とまっているよ、竿の先」も、幼い頃に見た露風の原風景である。露風はこの同じ光景をトラピスト修道院で体験することによって、一つのインスピレーションが閃いたのである。
母の背に負われて見た赤とんぼは、今でも自分の目の前に現存し、桑の実を摘んだ思い出や面倒見のよかったねえやへの郷愁は尽きることがない。けれども、最後の歌詞になっている「とまっているよ、竿の先」だけは、原風景と異なっていた。
実は4番目最後の句は、露風が龍野高等小学校在学中に作句したものである。「竿の先」に静止している「赤とんぼ」の風姿は美しくも切なく、いつか消え去ってしまうであろう幻の不安が、物心がついた頃から露風の感性を憂えさせていた。それは正しく寂寥(せきりょう)たる眺めであったにちがいない。
それから時は流れて、32歳になった露風はトラピスト修道院でも、竿の先にとまっている赤とんぼの「原風景」を見ている。露風の目の前に現れた幻は相変わらず美しい。けれどもそこには、もはや露風を深憂に陥れるような「原風景」は存在していなかった。
今、新たに発見した竿の先にとまっている赤とんぼの姿とは、信仰と希望と愛の象徴である十字架であった。夕映えに浮かぶ赤とんぼの十字架が、至上の愛をかざして露風の目に映っていたのである。この揺ぎ無きキリストの愛によって、一切の不安から解放されることを確信していた露風は、『赤とんぼ』の終わりの一行を、幼児期から少年時代にかけて纏わりついていた「寂寥」を葬って、希望の灯火として歌えるように、竿の先にとまっている「赤とんぼ」に十字架への思いを込めている。
2年後、露風は詩集『信仰の曙』を上梓して、妻と共に受洗。翌年、修道院を辞して帰京した。
露風は22歳の折に、或る孤高の画家をモティーフとして『魚』と題した詩を発表している。この詩は後に『神と魚』に改題されているが、露風はこの詩について、孤独な画家の「信仰によって慰められる悲哀」が、自分の至境であると述べている。
まず、『神と魚』の冒頭の一行に注目してから、この詩を味わって頂きたい。
つねに 曙 の寂寥に棲む。
太陽は海の彼方をめぐり、
夜はまたこのところを忘れ去る。
神の名を彫りてその石を埋め、
その石埋れてふたたび見ず。
ああ! 雪は単調なる世界を築く。
葉もなき木は、
凍れる池の上に影を映せり。
長き時を費せども、その影うごかず。
いま見よ。魚は下より浮びいづ。
魚は下より・・・・・・事もなく外をうかぶ。
この詩を味読して頂くとお判りのように、ぽつねんと生きている小さき魚である吾は、曙、即ち輝きをさえぎる、巨大な翳となっている寂寥に支配されている。けれども、孤高の画家の生き方に共鳴する青年露風は、森羅万象の摂理がそぞろに判るようになって来たのである。やがて魚である吾は、信仰によって慰められて、上のものを求めて苦界から脱しようとしていた。
そして、この詩を書いた10年後に、北海道のトラピスト修道院において、露風は幼き頃の「原風景」にキリストの愛を蘇らせたのである。
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